ふと気になった、というよりも目に付いたのが世間でも流行らしいという「携帯小説」。
そういうのがあることは知ってはいたものの、具体的にどういう代物なのかは実は知りませんでした。
私自身があまり携帯でネットを見ないというのがその理由です。
外出中であったり、すぐにPCが扱えない状況であった場合に、必要に迫られて使うぐらい。それも、天気や路線を確認したり、あるいは検索サイトで調べ物をする程度でした。
そういう事情もあってか、自分が手のひらの中の携帯を長時間眺めてはページ送りをしている図というのが想像できませんでした。
ところが、不意にどっかのサイトの下の方の広告リンクで見かけた「携帯小説」というリンクに、その時は目がとまってしまったわけです。(どうやら、私は久方ぶりの「活字病」にかかっていたらしい)
で、思ったのが、
「私の作品を投稿したら、どんな風になるんだろう?」
というものだったのですが、一応投稿ともなれば著作権とかいろいろ確認も必要だし、といくつかの携帯小説サイトを覗いてみたところ、
--何だ、これ……
いくつか短めの作品を読んでみましたが、最初から違和感を感じました。
なんで段落先頭の字下げがないんだろう?
改行がやたら多い。
1文=段落……とてつもなく短い。
1ページの文字数も少ない……
戸惑いもあったと思いますが、読みにくかったです。
しかしながら、結構楽しめる作品もあるんだな、というのも正直な感想ではありました。
携帯小説が「そのように」なっているのには、それに応じた理由もあるらしく、いわゆる「携帯小説の書き方」みたいなところで検索をかけて調べてみました。
その中には、小さな携帯の画面で閲覧することが前提だから、と納得できるものもありましたが、小学校で習ってきたような基本的な日本語文章のルールを逸脱するだけの説得力にはやや欠けているように思えたものもありました。
(字下げはやっぱりした方がいいと思うぞ、私は)
とまぁ、個人的な意見はともかく、そういうあり方が認知され、ここまで広まったからには、それはそれでありうる姿のひとつなんだとは思うしかありません。
で、話は戻って私の作品のいくつかを投稿したとしたら、おそらく今調べたところでは携帯小説のスタイルでは無理がありそうです。
基本的に小さい画面で、つまり一度に表示できる情報量にも限界があるにも関わらず、読みやすさのために改行がやたら多い。普通の小説なら、ちょっと長めのセリフだとそれだけでオーバーフローを起こしてしまいます。
実際には私のサイトはいくつかの例外はあるものの、基本的には携帯での閲覧に対応できるように作ってあります。もちろん、自作の小説なども携帯で読めるわけですが、先ほど見た携帯小説とは全然違います。ということは、これは「読みにくい」のか……そう考えると複雑。(苦笑)
やはり、郷に入れば郷に従えではないですが、もし書くならそれに応じた書き方で新しく推敲する必要がありそうです。
また、書き方のスタイルだけでなく、作風としての傾向も携帯小説には定番があるらしいです。
基本的に女の子口調の1人称
恋愛物がやたら多い
これはいったいどういうことだろう? 解説では、比較的若年層にウける、すなはち感情移入しやすいから、という理由らしいです。わからなくもないですけどね。
1人称なのは、私にとっては、サイコガードシリーズもあるし、それほど困らないのですが、恋愛物はいささか困ったことに……。(こんなところで私の乏しい文章力を暴露してどうする)
それと、普段からもっと情景描写や心理描写をしっかりしないと、と思って自分の苦手を克服すべくあがいているだけに、その方向性とはまったく逆のスタイルになってしまいます。
最初にサンプルを読んだ時にこう思いました。
これって、表現力が乏しくてセリフだけを並べてしまっていた、かつての自分の書いてたのに似てる……。別に、今がそれほど表現力があるなどとは思っていませんが、それにしても極端だなぁ、と思ったんですよ。
別に今の携帯小説を陳腐だなどと批判しているわけではないのですが……。
ただ、唯一批判めいたことを書かせてもらうと。この携帯小説が、巷の若人にもてはやされている、という事実からの類推です。
以前、言語や言葉のことでいろいろ考えていた頃「人間の思考のあり方というものは使用している言語に左右される」と考えたものです。つまり、ラテン語を源流とする英語やフランス語、ドイツ語などは、比較的論理的で明確な言語です。日本語みたいな曖昧さはありません。これは、文化的な精神構造の違いになって現れ、「ノーと言えない日本人」などといった本が話題になったりするわけです。
それと同じように、ひょっとしたら携帯小説のスタイルが、感情移入しやすく、もてはやされている今の若者の精神構造って、そういう「スタイル」になっているんじゃないかって……。
あまり深く物事を考えずに直感的に紡がれる短い言葉(=セリフ)、携帯の1画面に収まる程度にしか前後を捉えられない狭い視野。
紡がれる言葉には、紡ぎ手の捉える(見ている)世界が見え隠れします。同時に、それを読む読み手の方でも、そこまでしか見えない(捉えられない)という現実があるのではないか。
そんな取り留めもないことを考えていると、少し怖くなってきた。
携帯小説を読んで、私自身が気づいた特徴(上の解説サイトでは指摘されていなかった)に、こんなのがあります。
「それ、これ、あれ」などといった指示語が少ない。
「それで、だが、しかし、でも」といった接続詞が少ない。
必然的に1つの文や段落が長くなるこれらの単語が少ないのは携帯小説としては当然の結果なのでしょうが、その意味するところは、物事の理由や、相反する事象、紆余曲折を経ながらもひとつの結果へと導くための構造が欠落しているか、極めて不十分だというものです。
これで、いったいどれだけ作者の表現したかったことを書き表せられるのでしょうか。その不利を乗り越えて、それでも素晴らしい作品にするのが作家の腕ということなのだろうか。
うーん、半分以上は妄想に近いのですが、やはり実際にやってみるのもいいか、と最近考えています。
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